今季から戦うステージがついにJリーグとなる いわきFC。
地域リーグ所属時から天皇杯で格上のJリーグクラブを破るなど、その存在は常に一目置かれついにJの舞台でいわきFCの戦いが観られると待ち望んでいたサッカーファンも多い。
そのいわきFCに今季、3人の選手が流通経済大学から加入する。
スタッフ・選手と、これまでにも多く流経大卒がいわきFCに在籍しているが、今季新加入となる3人にも多くの期待がかかっていることであろう。
流経大の付属高校である流通経済大学付属柏高校から、流経大へと進んだGK鹿野(写真:右上)は
高校時代から頭角を見せゴールマウスに立つことも珍しくなかったが、なかなか定位置を獲得できない状況にあった。
高校時代から同期の薄井覇斗(→松本山雅FC)と7年間という長い期間、共にライバルとして定位置を目指し続けてきた。
薄井が鹿野との関係を「1年生時からお互いを意識したライバル関係というよりは、オビさんを(オビ・パウエル・オビンナ 現・横浜Fマリノス)目標にし続けてきた、という関係性だったと思う。」と話すように、薄井と鹿野というライバル関係というよりは、チームにたった一人の守護神という位置一点を目指してきた。
絶対的守護神を4年務めたオビの後継について、当時 中野監督に話しを聞くと
「薄井、鹿野どちらが出てきてもおかしくはないし、タイプも全然違うのでね。高校時は薄井が出て結果も出して注目も浴びていたが、鹿野だって負けていない。むしろ鹿野の方が大学では伸びてるかもしれない」
と話しており、オビが卒業した後の大学3年時には公式戦のほとんどを鹿野がゴールマウスに立った。
大学4年になり、ピッチの上に立っていたのは鹿野だったが、大一番の試合を前に練習中、顔面に大きな怪我を負ってしまう。
そのアクシデントにより、ゴールマウスに薄井が立つ機会を得て、鹿野は2番手という位置が続いた。
それでもゴールキーパーの争いは最後まで熾烈だった。最後まで何が起こってもおかしくはない状況でアクシデントや大きなミスによって交代の時期が来るかもしれないという緊張感を持って、戦い続けた。
「うちは高校生までの経歴は一切関係なく、その選手の『今』をみて試合に出すか出さないかを決める。
高校まで世代別の日本代表であっても、特別扱いはしないし、同じ。誰にでもチャンスはあるし、無名の選手が出口ではプロになっているということも多い。
それだけ4年間は選手を成長させる。GKは試合に1人しか出れないけれど、競争することで2人がプロに行くということもありえる」
と、当時中野監督が話していた通り、薄井覇斗と共に鹿野修平もプロサッカー選手となった。
流経大柏、流経大と全国の強豪の中の強豪というトップクラスにおいて競争してきた日々は無駄じゃない。
試合に出た数だけでなく、その日々が鹿野を大きく成長させた。
「大学で成長したと感じる部分は、サッカー観が身に付いたこと」という鹿野の次の舞台はJリーグ。いわきFCのゴールマウスに立つ位置を目指して プロのピッチを踏みしめる。
PROFILE:鹿野 修平
1999年8月27日生まれ
FRIENDLY→ 流通経済大学付属柏高等学校→流通経済大学
コロナ禍の影響で長い期間流経大を訪れることができず、久々に目にすることができたチームの中で、一番の驚きを感じた選手がDF家泉怜衣だった。(写真:中央)
距離のある視点から見ても、その身体の大きさとフィジカルの強さはかなり目立っていた。
昨季の流経大は身体の大きな選手が少なかったとはいえ、昨今身長185cmオーバーの選手は、さほど珍しい身長でもなくなってきたが、家泉の身体は明らかな大きさと存在感があった。
最終ラインの真ん中に君臨するその姿からはまさしく「壁」を感じさせた。
相手を簡単に通さず、前を向かせないよう自由を奪い、しっかりと背後への対応も欠かさない。
レベルの高い関東大学サッカーの舞台であっても、簡単には越えることのできない「壁」となり存在感ある最終ラインをしっかりと形成していた。
タレント揃いで常に強烈な競争がある中で、4年生になってからスタメンを勝ち取った家泉は努力の3年間とトップチームでの1年間の高いレベルでの経験値で自己評価を驚くほどに上げた選手の一人であろう。
インカレ準決勝。
優勝を目指していたチームにとって絶対に突破したいゲームであるはずが、苦しい状況の試合が進む中で、家泉は相手との接触によりピッチの上に倒れ込んだ。
険しい表情を浮かべていたが、プレーを続行するという選択をした家泉。その姿からはこのピッチから去ってたまるものかという気持ちが滲み出ていた。
痛みをこらえてプレーし続けていたが、やはり強い痛みが襲い続け、ピッチの上に再度倒れ込んだ。
決勝へ向かうためには、最後まで戦いたい。このメンバーでこのチームで戦う最後のピッチにするわけにはいかない。歯を食いしばり担架に乗せられた姿からは強いメッセージが伝わってきた。
大学最後に背負った大きな悔しさは、プロの世界に舞台を代えて「経験」としてきっと発揮してくれることであろう。
大学3年生までは無名の選手。だが、この1年で不動のセンターバックとして立ち続けてきたのは偶然でも運でもない。
実力だ。
中野監督は各選手を流経大OBの選手たちに例えていたが家泉に関しては「うちのOB選手ではないが菊池流帆(ヴィッセル神戸)のような選手」と表現した。
最後まで諦めず粘り強いディフェンスは何度もチームの危機を救い、ヘディングの強さと高さはチームの攻守の武器にもなった。
J3の舞台でも、観ている人たちが驚くような「大きさ」ある存在感を発揮し、チームに貢献するディフェンダーとなることが非常に楽しみな選手だ。
PROFILE:家泉 怜依
2000年1月20日生まれ
FCディアモ→寒川高校→流通経済大学
「曺さんが一番評価していたのは、永井」と中野監督。
「変わった独自のドリブルを武器としていて、簡単には止められない」と話すように、永井のドリブルは独自のタッチで相手が予測できない動きとなり突破するという印象だ。
事実、ボールを持つ姿に自然とその動きに期待感を持って注視してしまう魅力を持つ。
永井はいわきFCのある福島県出身の選手であり、東日本大震災も経験した。
福島県でプロサッカー選手になるということに特別な想いを持ち、「いわきFCでプロサッカー選手となるのは自分にとって特別なこと。多くの人にサッカーを通じて、恩返しがしたい」と口にした。
高校時代までは全くの無名選手。
しかし、流経大に入学してからの4年間で多くのことを経験し大きな出会いを経て、評価されたことも自信となり、プロサッカー選手になるという目標を達成し次なるチャレンジに進む。
大学4年間、自身で感じている成長はと問われると「大学に入るまでは全く守備ができない選手だったので、守備の部分の向上と成長は明らかだと思う」と語り、
「みなさんの記憶に残る選手になりたい」と抱負を語った永井。
守備を兼ね揃えた「ちょっとその辺にはいないドリブラー」と中野監督の太鼓判が付いた 永井颯太のこれからに注目だ。
PROFILE:永井 颯太
1999年8月15日生まれ
Vamos福島FC→中央学院高等学校→流通経済大学
TEXT: IIMORI TOMOKO
EDIT: SHIOZAKI TAKAHITO
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